カルは一人ぼっちで、毎日そうするようにノートを二冊と短くなった鉛筆、それを削るための小さなナイフを持って家を出た。街で何番目かに早く起き、石段をとんとんと降りる靴音が街の未だ眠りから覚めていない静けさに包まれた空気を柔らかくノックしながら大川の方へ下っていくというのが一年の大抵は繰り返される日常であったのだが、その日だけは少し趣が違っていて、家々の扉の前に焚かれた松火がパチパチと弾けながら、いつものランプとは一風変わった灯りをゆらゆらと投げかけていた。始まりの雪が降ったのだ、とカルは思った。



1.パン屋、ダン


 『オハヨウゴザイマス』という文字の書かれたノートの一ページを掲げながら彼がパン屋の扉を開けたときには、既に店の主人であるダンが朝一番のパンを焼き上げて石窯から取り出しているところで、カルは少し時間に遅れてしまったかと駆け足でカウンターをすり抜け中に入ろうとしたのだが、その音に気付いたダンは片手を上げてそれを制止した。
「いや、急がんでもいい。この日だけはどうもあの音が気になっちまってな」
 そう言ってダンはガハハと笑った。大人の中でも背丈が高く浅黒い肌を持った彼は幼い頃のカルから見ると巨大な鬼のように映ったものだが、その陽気な性格がカルを懐かせた。十の頃から共に暮らす大人のいないカルには彼が父のような存在であった。
「まあお前には始まりの雪の音が聞こえないのも無理はないさ」
 ダンは一つ一つ出来上がったばかりのパンの出来を調べながら言った。
「聞こえるのは大人達だけだからな。そういやカル、お前今年で十四だったな。どうするんだ? 来年は」
 カルは少しはにかんで首を傾げた。その様子を見てダンは小さな溜息をつき、パンを載せた盆をカルに手渡した。
「一年なんざあっという間だ。早めに考えといた方がいい。この街に残るか、アイを見つけて東の‘国’ってとこへ旅立つか。一生の問題だ」
 カルは頷き、パンを店の棚に並べ始めながら考えた。アイとは一体何なのだろうか。それは今までに何度も頭の中を駆け巡った問題で、カルはその度に少しこめかみの辺りが痛むのを感じるのだった。ダンに尋ねたときに分かったのは、アイとは心を暖かくするものということだったのだが、カルにとってそれはあまりに抽象的すぎる言葉であった。とは言え、十五になる恋人達はその年の始まりの雪が地面に落ちるまでにアイを見つけ出し、その確かな形を最も近しい大人に提示して承認を貰わなければ一生この街を出ることは出来ない。そしてこの街にいる限り、三十の年になるまでは恋人と共に暮らすことは出来ない。それが決まりだった。今のところ、別にこの街に不満があるわけではない。ダンの作るパンは素晴らしく美味しいし、恋人のミウに毎日会いに行くこともできる。しかし、とカルはまた考えを巡らせた。東にある‘国’というところは一体どんなところなのだろう。そこでは鉄の塊が空を飛び、人々は高い高い建物に住み、夜も街の火が消えることはなく、歩くよりも何倍も速いクルマというもので移動すると聞いたことがある。そしてそこでミウと共に暮らすということがどんなものなのだろうかとも考えた。
「カル、毎年のことだが今日は川の畔に行くのは止めておけ。今日の大川は旅立つ者達だけの神聖な場所だ」
 カルは考えるのを止めてダンの声に頷き、ノートに『ワカッテマス』と書いて顔の前に掲げたが、ダンは既に窯の方を向いて次に焼くパンを入れているところだった。カルは慌ててカウンターの向こうへ走り、冷蔵庫を開けて発酵させておいたパン種を取り出した。



2.書庫、ノロ


 カルが仕事を終えて街に出たときには既に日が高く昇っていて、軒先に見られた松火は取り去られ、代わりに毎日見る未だ火の点いていないランプが時々風に吹かれてからからと揺れていた。殆どの住人達はまだ仕事中らしく、たまに機械が動いている音や微かな話し声は聞こえるものの、辺りに人影は無かった。カルは降りてきたときと同じようにとんとんと石段を登り、家に向かう曲がり角を通り過ぎるとさらに十分ほど北へと進み、この街全ての住居と店舗が配置された坂を登り切ったところにある頂上広場へとたどり着いた。山を水平に切り取ったような真円形の頂上広場には、カルも六の年から言葉を無くした八の年まで通った小さな学校と雨水を濾過して家々へと送り出す貯水施設と書庫、その他カルには何をする所なのか分からない幾つかの建物が石敷きの道路をぐるりと取り囲むような格好で建っていた。
 北東にある書庫の扉を開けて中に入ると、弱すぎる光のせいで始めは中に何があるのかよく見えず、カルは入り口で少し立ち止まって目を慣れさせなければならなかった。扉のすぐ向こうにあるカウンターには一人の痩せた青年が座って何やら本を広げていたが、カルに気が付くと本をバタンと大きな音を響かせて閉じ、カウンターの上に投げ出して立ち上がった。
「やあカル。どうだい調子は」
 カルは右手を軽く挙げ、それから前もって『コンニチハ ノロサン』書いておいたノートのページを開いて青年に見せた。それからページをめくって『アイニツイテノ本』と書いた。
「アイについての本、か」
 ノロは目を細め、ノートの文字をなぞるようにゆっくりと復唱してからカルを見つめた。カルよりも四つ年上の彼は何かを考えているようだったが、やがて落ち着いた声で答えた。
「確かにここにはこの街の大体がある。服の縫い方から紅茶の淹れ方、速く走る方法までね。だけど、残念ながらアイについてはご希望に添える本は無いな。それが何故だか分かるかい? 」
 カルは少し残念そうな表情で首を振り、ノートに『ナゼ?』と書いた。
「まあこっちに来て座りなよ。お茶でも出そう」
 そう言うとノロは手招きしてカウンターの内側にカルを導いた。そして空いた椅子にカルを座らせると奥の部屋へ行き、しばらくしてから白いコップを二つ持って戻ってきた。カウンターの内側の机には様々な本が整然と積み重ねられていた。中には難しい文字で書いてあり、カルには何の本だか分からないものもあったが、‘医学’という文字が多いことだけは分かった。
「最近お茶に凝っててね」
 湯気の立つコップを手渡しながらノロは言った。カルはノートをノロから見える所に置き、『アリガトウ』と書いた。
「色んな本に書いてある。お茶は昔薬として飲まれてたこともあって体にいいんだ。それに、特に冬には風の冷たさから体を守ってくれる」
 カルとノロは同時にずずっと茶をすすった。そしてまた同時に気持ちの良い深い息を吐いた。
「さて、アイについてだったね」
 カルは頷き、物知りのノロがどんな話をしてくれるのだろうと半ば期待し、半ば不安を感じながら待った。頭上の壁に掛けられた時計がコツ、コツ、コツ、と時を刻んでいたが、カルにはそれがいつもより非常に遅く感じられた。
「ここにはアイに関する本は無い。アイを知る人がこの街にはいないからだ。‘孤独の街’さ」
『孤独ノ街?』
「そう。孤独とはつまりアイが無いということだ。ここはアイを持たない人しか住むことが出来ない街なんだ」
 カルには訳が分からなかった。混乱しているカルの様子を見てノロは落ち着けというように掌を広げた。そうして急に小声になって囁くように付け加えた。
「大人には秘密にしておいてくれ。特に妻子ある人にはアイが無いなんて、あんまりそんなこと言うもんじゃない」
 カルは訳の分からないまま、ただ頷いた。そして恐る恐る鉛筆を走らせた。
『ダンサン アイノコト 教エテクレタ 』
「ダンさんか。いいオヤジだ。子供はまだいないけれど奥さんがいて、パン作りに命を賭けている。でも、それはアイとは呼ばない。何て呼ぶか知ってるかい? 」
『ワカラナイ』
「それは愛情といって、アイに近いけれどもアイではないものだ」
『ドコ違ウ? 』
「それはこの街のルールからある程度推測することが出来る。十五の年になってアイを見つけられなかった恋人達はそれから先共に暮らすことが出来ない。共に暮らせばどこかでアイを見つけてしまう可能性があるからだ。街はそれを恐れている。けれど三十の年になればその制約から解放され、共に暮らせるようになる。そこなんだ。思うに、十五の年に見つけられなかったアイは少しずつその形を無くしてゆき、愛情へと変化する。つまり愛情というのは形の無いもので、形が無いからこそ色々なものに対して感じるし、またそれを受け入れるのも簡単だ。色々な要因でそれは変化し、消えることもある。けれどアイとはただ一つのもので、ある特定の一人にしか受け入れることは出来ないし、またその人がいる限り存在し続ける。アイには形があるからだ。確固とした形があって、確かな暖かみを感じられる。僕にも確かなことは言えないけれど、最近何だかそんな気がするようになってきた。それは僕が大人というものに近づいているからかもしれないけれど」
『形アルモノ…』
「きっとね」
 それだけ言うとノロはまた茶を啜った。カルは一度に色々な魔法を受けてしまったように頭が混乱していて、しっかりと焦点を定めることが出来ずに視線をくすんだ色をした本の群れに彷徨わせていた。そのうちにまたこめかみが痛み始めたが、なかなかアイの形や愛情や、それから孤独というどこか冷たい言葉を頭から追い払うことが出来ず、ただ指で頭を押さえて唸るしかなかった。ノロに「大丈夫かい?」と声を掛けられたが、カルは平気な風を装ってただ『大丈夫』と書いた。



3.恋人、ミウ


 それからしばらくして痛みの和らいだカルはまた元来た急な坂道を南へと下っていた。日が落ちるにはまだ時間がありそうだったが、ぽつりぽつりと軒先のランプに火が灯されていて、その日の仕事が終了したことを告げていた。カルは歩きながら、アイが何処かにあるのならばそれを探してみたいと思った。しかしアイというものが例えば見つかったとして、果たして本当にミウは声を出すことも出来ない僕と一緒に川を下ってくれるだろうかということや、東の‘国’というところで満足な暮らしが出来るだろうかとも考えた。二人が同じベッドに寝て同じ時間に目を覚まし、パンを焼くカルの隣にはミウがいる。そんな光景はカルにとってとても幸せであろうものだったが、やはり一抹の不安を感じずにはいられなかった。しかしそれでもカルはやはり今日、ミウに会いに行かないわけにはいかないと思った。
 ミウの家はカルの家に向かう曲がり角から少し北にある角を反対側に曲がってすぐの所にある。カルはミウの家に行くときいつもそうするように玄関前で深呼吸をし、ランプの火が点いていることを確認してからトントンと軽く二度扉を叩いた。「はい」というくぐもった声が聞こえ、すぐに扉が開いた。ミウは体は小さい娘だったが薄い茶色の美しい髪の毛を長く伸ばし、頭の上で束ねているために実際の背丈よりも高く見える。そのためカルはミウの家に尋ねるとき、いつも最初の一瞬視線が上に行ってしまい、のけぞるような格好になってしまう。
『コンバンハ ミウ』
「こんばんはカル。さあ、とりあえず中に入って。凍えちゃいそうよ」
 家の中に入ると部屋の真ん中に置かれたランプが柔らかいオレンジ色の光を放っていて、カルはもしかしたらあのランプがアイではないかと疑ったが、カルの部屋のランプも同じような光だったことを思い出し、その考えをすぐに打ち消した。奥の部屋ではミウの母であるネイが夕食を作っているらしい音が聞こえた。今日のメニューはシチューらしく、クリームのいい香りが鼻を優しくくすぐった。カルはもしかしたらとまた思ったが、シチューの形というものがどうにも思い浮かばなかったのでシチューも候補から外すことにした。
「ママ、カルが来たわ」
 ミウに呼ばれてもネイは顔を出さず、声で「あら本当?」と答えた。それから「いらっしゃいカル。ゆっくりしていって」とまた声だけで言った。カルはなぜ顔を出さないのだろうと少し疑問に思ったが、ただ『アリガトウ』のページをキッチンに向けただけだった。
 ミウはカルを椅子に座らせるとその向かい側の席に腰を下ろした。そしてしばらく、いつもの表情ではなく真剣な眼差しで黙り込んだままテーブルの上に活けられた一輪の小さな白い花を見つめていた。シチューを作る鍋のぐつぐつという音と薪が燃える音だけが部屋を支配し、カルはなんともいえない緊張感に包まれながら思った。ミウは知っていたのだ。これから彼が何を話そうとしているかを。
「ねえカル。来年のことでしょ? 分かってるわ。もうそろそろ考えてもいい頃だもの」
 ミウは視線を花から逸らさずに言った。カルは頷き、ペンを走らせた。
『僕 アイ探ソウト思ウ 今日書庫ニ行ッタ ノロサン教エテクレタ アイハ形アルモノ ソレ探ソウト思ウ』
「それがあなたの選択なのね。とても嬉しいわ。私もあなたと暮らせたらどんなにいいかと思うもの。でももしもアイが見つからなかったとき、とても傷つくと思うの。深い深い傷よ。私はそれが怖いの」
『キット見ツケル』
「どうやって? 」
『ミウ 僕ヲ信ジル 僕 アイ探ス 一年長イ キット見ツカル』
「あなたを信じて、それでアイが見つかるなら私は信じるわ。でも、なんだか私にはそれじゃ足りない気がするの。それだけじゃ」
『ミウ‘国’ニ行キタクナイカ? 』
「そりゃ行ってみたいわ。クルマに乗って走り回ったり綺麗な服を着てお散歩したり、そんな生活って最高に楽しいだろうと思うもの。だけど…」
『ミウ 僕ヲ信ジル キットアイ見ツカル』
 鉛筆が紙の上を走るさらさらという音が止んだ後には再び鍋と薪の音が部屋を埋め尽くした。ミウはまだ何か言いたそうに花を見つめていたが、やがて不安を押さえ込むかのように頷いた。



4.冬、孤独


 次の日、夜のうちからはらはらと降り始めた雪の中、いつものようにパン屋のドアを開けたカルは挨拶の後ダンに『パン 作リタイ』と伝えた。予想していなかったカルの言葉にダンは一瞬驚いた表情を見せたのだがその理由が手に取るように理解出来たので、彼は店が終わると工房を使わせ、今まで教えていなかった様々な技術をカルに仕込んだ。小麦の選別の仕方から天然酵母の培養の仕方、石窯の温度を一定に保つ方法、それから食パンを切る時に使う包丁の使い方からメンテナンスまで、‘国’で生活する上において役に立つと思われることは全て教え込んだ。それは決して楽な作業ではなく、カルは何度も火傷をしたり包丁で指を切ったりした。その度にダンはカルを厳しく叱った。時には罵声を浴びせられるような日もあったのだが、カルがそれからパン作りを休むことは一日として無かった。
 カルはまたパン作りと平行してアイを探して回った。それは時には家の中であったり大川の畔であったりした。家でノロに教えてもらった茶を淹れて飲むと暖かい気持ちになれたし、大川は向こう岸が霞んでしまうほど大きく壮大だったが、アイの姿は何処にも見出すことは出来なかった。そのうちに季節は過ぎ、木々の葉が黄色く染まる頃になるとカルはパン作りの殆ど全てを一人で出来るようになった。始めはパンを真っ黒に焦がしたり歪な形に膨らませてしまったりしていたものだが、その頃にはダンもカルの腕を認め、店にカルのパンを並べ始めるようになった。だが依然として、カルはアイを探す手がかりすら掴めずにいた。
 冬が間近に迫ったある日、カルは頂上広場へ登った。その頃にはもう街の全ての場所を探し尽くし、何処にもアイが無いことを悟ったカルは広場の端にある柵の手前に立ち、ただ呆然と街を眺めるしかなかった。落ち行く太陽が街を幻想的な色に染め上げ、それは美しい眺めだったがそれもまた探しているアイではないことを既に知っているカルにはただの静かな景色でしかなかった。
 日が沈む前に戻ろうとカルが後ろを振り返ると、見たことのある細い人影がこちらに向かって歩いているのが見えた。顔がよく見えなかったが膝まであるコートを身に纏ったノロだということがすぐに分かった。ノロはカルのすぐそばまで来ると手を挙げ、「やあ」と簡単な挨拶をした。カルはノートを開き、いつものように『コンバンハ』のページを見せた。
「このぶんじゃ恐らく三日か四日後には始まりの雪が降るだろうな」
 ノロは言ってからぶるっと体を震わせ、肩をすくませた。
「一人ぼっちの冬ってのは寂しいもんだ。そう思わないかい? 」
カルは‘寂しい’という言葉を頭の中で繰り返した。胸がぎゅっと締め付けられたような息苦しさを感じた。
『寂シイ』
「大人に近づけばもっと寂しくなる。なぜだか分かるかい? 」
 カルには大人というものもぼんやりとしか分からなかった。ただダンやネイの姿が浮かんでくるだけだった。
『分カラナイ』
「段々と気付いてくるんだ。孤独というものにね。孤独というもののはっきりとした形が見えてくるようになる。それはとても寂しいものだ。だから僕は君にアイを見つけてほしいと思う」
『アイ 見ツカラナイ アイ ドコニモ無イ』
「それは違うね。いつか言っただろう? 孤独とはアイが無いってことだってね。今の君はとても孤独だ。それじゃいつまで経っても何処へ行ってもアイなんて見つかりやしない。孤独なアイなんてあるはずがないんだ」
 その瞬間、北からやってきた冷たい風が二人の体を突き刺すように吹き抜けていった。カルは顔を上げてノロを見た。それから下に広がる街を見た。街はもう既にほとんどの家でランプが点っていて、ただひっそりと冬を待っているように見えた。
「行きなよ」
 ノロが言い終わらないうちにカルは坂を下り始めていた。最初はゆっくり歩いていたが、気持ちが彼を走らせた。よく見えない石段をカルは全力で駆け下り、ミウの家の前まで来ると扉をドンドンと叩いた。不思議そうに扉を開けたミウに挨拶をすることも忘れ、中に入るように促す声を聞くこともなくただひたすら文字を書き殴った。
『僕 馬鹿ダ 馬鹿ダ 馬鹿ダ 馬鹿デ 馬鹿デ 馬鹿ダッタ ミウ 信ジルダケジャ足リナイト言ッタ 本当ダ 僕ガ馬鹿ダッタ』
 息を切らせるカルをじっと見つめていたミウの目に大粒の涙が浮かんだ。ミウは泣き顔になりながら首を振った。
「そんなこともういいのよカル。やっとアイを見つける方法が分かったのね」
『僕 パン焼ク ミウ ソバニイル キット アイ見ツカル』
 涙を拭きながら何度も頷くミウの髪を撫でながらカルはミウの手を取り、今度は家の中で静かに座っているネイの前まで行ってまた鉛筆を走らせた。ココアの甘い香りが部屋の中に舞っていたが、カルはそれにも気付かなかった。
『僕 ミウ連レテ アイ探シニ行キタイ ミウ傍ニイル キット アイ見ツカル』
 ネイはそれをじっくりと読み、ココアを一口飲んだ。それから立ち上がって、何も言わずに奥の部屋へ消えた。カルがじっと待っていると、ほどなくして火の点いたランプと毛布を一枚持ってきてくれた。
「夜は冷えるわ。気を付けて」
 カルはネイに深くお辞儀をし、ランプをかざしながらパン屋に向かって走り出した。向かい風は冷たく強く流れていたが、握っている手だけは暖かさを失うことがなかった。すぐそこにアイはあるのだとカルは思った。頭はひどく痛んだが、カルには立ち止まるという選択肢は既に無かった。パン屋に辿り着くとカルは勢いよく扉を開け、工房に向かい、石窯に火を入れた。
 それからカル達はただパンを焼き続けた。不思議なことにダンはそれから一度もパン屋に姿を現さなかった。カルとミウは二人で生地をこね、二人でパン種を様々な形に変え、二人で窯に入れた。朝が過ぎ、次の日の夜になってもそれは休むことなく続けられた。しかし、求めるものはなかなか出来なかった。窯から取り出されるパンは何個焼いてもただのパンでしかなかった。暖かみは感じるが何かが違っていた。それは全くアイではなかった。何が違うのか、なぜ違うのかとカルは何度も何度も頭の中で問いかけたが答えは出てこなかった。ついに三度目の夜、何百個目かのパンを焼き終えたとき、疲れ果てたミウは倒れ込み眠ってしまった。それからもカルは何時間かの間一人パンを焼き続けたが、結局最後までアイが姿を現すことはなかった。何百回目かの「なぜ」を頭に浮かべた後、カルもまた力尽きて眠ってしまった。



5.始まりの雪


「始まりの雪が降るとき、なぜそれが旅立ちのときなのか。カル、君には分かるかい? 」

 カルはノロの声で目を覚ました。眠っている間に体は毛布で包まれ、目を開けるとぼんやりとした灯りがパン屋の店内を照らしていた。外はまだ真夜中のようだったが、窓から見える空にはきらきらと光る何かが、無数に地面に向かって舞い降りていた。始まりの雪だとカルは思った。期限が来たのだ。カルはがくりと肩を落とした。そしてノートを探した。ノートは彼の傍に置かれていて、鉛筆は綺麗に削られていた。
『始マリノ雪』
「そうだ」
『時間キタ』
「そうだ」
『アイ 見ツカラナカッタ』
「カル、君はよくやったよ。アイを探す作業は僕らには見ることが出来ないけれど、工房を見れば分かる。よく頑張った」
 ノロはそう言ってカルの肩をぽんと叩いた。カルは不思議と空気の冷たさを感じることはなく、清々しい気持ちがした。頑張るということはこんなに気持ちのいいものだったのかと、大きく息をつきながら思った。
『終ワッタ』
「そうだ」
『家 帰ル』
「いや、それは出来ない」
 強い調子でノロはそう答えた。カルにはその意味がまるで分からなかった。
『ナゼ? 』
「何故かって? 君とミウはもうこの街にはいられないからだ。アイを見つけた人間は大川を下り‘国’で暮らす。それが決まりだからだ」
 ノロは微笑んで奥の工房を指さした。眠りの途中で起こされたカルはよろよろと立ち上がって工房に向かった。心臓がどきどきした。「もしかして」とカルは心の中で呟いた。もしかして、もしかして、もしかして、と何度も呟きながら工房をそっと覗いてみた。
 何百とパンが打ち捨てられている中に、柔らかく暖かい光が見えた。カルは一歩ずつ、パンを避けるように進んだ。始めはその光がどこから発せられているのかよく見えなかったが、進むうちに段々とその正体を認めることが出来た。カルはそれが何かはっきりと見えるところに立つと、ぴたりと足を止めた。
 光を放っているのはミウだった。毛布の中ですやすやと眠っているミウの体から、微かに、だが確かな光が放たれていた。その光は太陽ともランプとも松火とも違う柔らかさと暖かさでカルの目に飛び込んできた。カルは少しの間その光に心を奪われていたが、やがてミウの体をそっと抱きかかえ、店に戻った。
 店にはいつの間にかノロの他にダンもいた。ダンは出口の方を向いてただ立っていた。泣いているようだった。
「おめでとうカル。君はアイを見つけた。それがアイの形だ」
 カルが頷くとたまらずダンがカルへ向き直り、涙でくしゃくしゃになった顔で叫ぶように言った。
「カル!ちくしょう。こいつ本当にアイを見つけちまいやがった。ノロよ、見てみろ俺の顔を。情けねぇ。情けねぇよなあ。ちくしょう…」
 そんなダンの姿を見ると、カルの目からも勝手に涙がこぼれ落ちた。止めようと思ったが、涙は後から後から溢れてきて止まらなかった。カルは涙をぽろぽろ床に落としながらミウをカウンターの上に寝かせ、ダンに歩み寄った。
「ウッ…ウッ…ウオーッ!」
 カルは泣いた。大声をあげて泣いた。声を出したのはこれが何年振りくらいだろうかとふと考えたが、それも少しの間頭に浮かんだだけで、後は何も考えられなかった。どうしようもなく流れる涙が、それは些細な問題だとでもいうように、滝のように流れた。
「ウオーッ!ウオーッ!ウオーッ!」
「ちくしょう!ちくしょう!カル!てめぇなに泣いてやがる!」
「ウオーッ!ウオーッ!ウオーッ!」
「カル!‘国’へ行く奴はな、そんなしみったれた泣き顔はしちゃいけねえんだ!くそったれ。ちくしょう!」

 二人は抱き合い、ただ大声で泣いた。ひとしきり泣いた後、目を覚ましたミウとカルは手を取り合い、松火で照らされた石段を降りて大川へと向かった。大川には‘国’から一年に一度、恋人達を迎えに来る船が来ているはずだった。相変わらず始まりの雪の音が聞こえることはなかったが、冬の冷たさも感じることがなかった。カルは石段をゆっくりゆっくりと下りながら思った。たとえ‘国’で何があろうと、二人は幸せに生きることができるだろうと。二人はきっといつまでも、寂しくないから。


















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