#40 疲労/肩屋さん

何かがキラリと光ったように感じて瞼を押し上げる。大阪市営地下鉄午前0時02分のホームは文字通り今日最後の希望を待ちこがれる人々で少々混み合っていて、その最前列に並ぶ私の脳裏に先程からよぎるのはなぜだか先日環状線で起こったばかりの人身事故で、言いようの無い不安だか仕事の疲れだかで長い間瞼が下に落ち着いていたことをそのとき初めて自覚するのだが、私の目の前にはどうしようもなく暗いただの線路しかなく、その線路に誰かの切断された首が、いや、そんな妄想は今ポケットに収まっている財布の薄さくらいにどうでもいいことで、今重要なのはその暗い線路の上を、丈夫そうな袋を担いだ薄い色の子供が何人かはしゃいで走り回っていることである。よくよく目を凝らして見てみると、線路のあちこちで、今しがた私が幻だろうと感じて気にも止めなかったキラリと光る何かが散らばっていて、薄い色の子供達はどうやらそれを探し、拾い集めては袋の中に放り込んでいるようだった。そのうちの一人と目が合い、私は何かを尋ねようとした。しかしなにしろ疲れ切っていて言葉というものが出てこない。子供の方はじっと私を見ている風であったが最終電車のアナウンスが聞こえると弾けたように走り出し、暗い暗い闇の向こう側へと消えていった。
とにかく私の体は休息を必要としているようであって、窓の向こうを流れゆく暗闇を何の感慨も無しに見ているとまたあの轢死体の姿が思い出され、あの色の薄い子供達が集めていたキラリと光る何かはもしかしてアレだったのではないかと思うのだが、確証は、無い。




帰りの電車に乗ったらなんだか疲れて眠くなった。
ふと横を見ると、隣の人の腕に何か紙が貼ってあった。

 肩貸します ひと眠り100円

私は100円玉をとりあえずその人の腕に置いて肩にぽてっと頭をのせて眠った。
目が覚めたときには、電車はもう知らない街を走ってた。
さすがプロだと思った。





#39 猫のワルツ

きれいなきれいな夜でした
夜空にきらきらお星様
黒ネコさんが言いました
「ほらごらん あんなにおっきな僕がいる」
白ネコさん お星様見上げ言いました
「本当に おっきなおっきな黒ネコさん でもあんなにおっきくちゃ わたしはただのまだら模様」
黒ネコさんは悩みます
お空をながめて悩みます
お空はあんなにおっきくて
きらきら光るお星様
とってもとってもちっちゃくて
なんだかなんだか悲しくて
黒ネコさん お空を見るのをやめました
「白ネコさん やっぱりお空は おっきすぎる」
「黒ネコさん まだら模様は なんだか寂しい」
「踊ろうよ」
「踊りましょ」
それからネコさん手をつなぎ
くるくるくるくる踊ります
黒ネコさんと白ネコさん
くるくるくるくる一つになって
ふわふわふわふわ空へ行き
灰色の雲になりました





#38 夏の缶ビール

いつの間にか夕焼けの砂浜に座っていて、さてこれは一体どうしたことだろうかと考える。前日に巨人がまた逆転勝ちしていたことと、確か帰りの電車に乗っていて、目の前の吊革に向こう向きでつかまった女のデニムタイトが描く尻の曲線がいやにだらしなかったことを思い出し、そのせいにすることにした。

夏が、すぐ傍に来ていた。いつの間にか夏は私の右側に腰掛け、夕焼けを常に赤く火照った顔の真正面に受けた。夏の顔はとても暖かくて上半身はいつものように裸だった。私もシャツを脱ぎ捨て、夏と同じように体を夕焼けに焼かれることにした。
「お久しぶり」
「少しやつれたようだけれど」
「冬ほどじゃない」
それをきいて私は笑った。確かに冬は夏にとっては厳しすぎる季節だ。
「春と秋は僕が作った。夏と冬が隣同士にならないためにね」
「あり得る話だ」
夏も笑った。私の言葉で夏が笑ったのはいつ以来だろうかと考えると、もう随分私は夏と話をしていなかったことに気づき、急に懐かしさを覚えた。
「今日ここに来たのはお別れを言うためだ」
夏はひとしきり笑った後、元の顔に戻って呟いた。夏の顔には相変わらず夕焼けが照りつけていて、赤い顔にオレンジの光がよく似合っている。
「別れ?」
「何にでも終わりはある」
「夏にも終わりがあるって?」
「そうだ」
「でも君が終わってしまうより前に、きっと僕の方が死ぬだろうよ」
「そうかもしれない。順調にいけばあと50回ほど君と会うことになる。そして君は死ぬ」
「そうだよ」
「でも前もってお別れを言っておくのも悪くないと思わないかい?」
そう言って夏はどこから持ってきたのか缶ビールを二つ取り出してきて一つを私に差し出した。プシュッと小気味良い音を鳴らして、二人同時に冷たいビールを流し込んだ。
「悪くない」
「だろ?」
「特によく冷えたビールと一緒ならね」
夏がまた笑った。そして小さく「さよなら」と言った。
「それから君はもう服を着た方がいい。今はまだ夏じゃないからね」
「そうするよ」
「また会おう」
「さよなら」

気が付くと大きな月がぽっかりと、まるでコンパスを使ったかのような綺麗な円を黒い空に描いていた。少し歩いて小さな店に入り、ビールを一杯飲んだ。あまりうまくないビールはとりあえず巨人のホームランと尻のだらしない女のせいにしておき、また夏に会いたいと思った。






#37 終止符

歌を歌ったら楽譜が口から出てきた。
歌うのをやめてもたらたらたらたらと真っ白な五線譜は止まらない。
終わりの符号って口でどう言うんだっけと思ってネットを調べたけどまだ見つからない。





#36 飛べない蝶

若い絵描きは道端の小さな椅子に腰掛けて、賑やかな街の喧噪の中、その佇まいはまるで美しい女性の泣きボクロのようにひっそりとしていて、私はその日、初めて見た彼に吸い寄せられるように絵の方へと足を向けていた。彼は私に気が付くと静かに微笑み、「どうぞごゆっくり」と言った。
彼の傍には女がいて、長く黒い髪を風になびかせながら彼の肩に手を置いてじっと前を見据えていた。笑っているのか怒っているのか、そんな微妙な表情が意図するところは私には読み取れない。女はただ本当にじっとしているだけで、私が近づいたことにすら気づいていないのか表情を変えることは無く、私はこちらも気づかないふりをしてしまおうかと一瞬思ったのだが、女の左目に泣きボクロを見つけ、「奥さんですか」と尋ねた。
彼は女のことを訊かれるとは思っていなかったらしく、少しの間目を大きく開けて私を見上げ、それから自分の右肩に添えられた手を眺め、行き交う人々をしばらく見つめてから「ええ」と答えた。
「そう見えますか?」
「左目に泣きボクロが」
私が言うと彼はくすくす笑った。
「女の泣きボクロはいい」
私も彼に同意し、もう一度表情の変わらない女を見た。女は変わらず前の一点を見ているだけで、おそらくは私に気づいていないだろうと思った。絵描きもまた女を見上げ、肩の手に自分の左手を重ねた。
「泣きボクロのある女は涙もろいってね」
その声で私は絵描きの方へ目を移した。彼の目はどこか絶望的で、まるで虚空を見つめているような虚しさがあった。
「でも僕は彼女の涙を一度も見たことが無い」

午後6時前になると、日が長くなってきたとはいえさすがに辺りは薄暗く、あちらこちらで電灯が灯り始めていた。遠くに見える陸橋の上から、今日もストリートバンドが演奏する何だか喧しい音が聞こえてくる。仕事を終えた人々はまたこれからどこかへ働きに行くのではないかというくらいに急ぎ足で次の環状線に乗ろうとする。
「彼女、目が見えないんです」
「そうでしたか」
「病気しましてね。」
私は頷いたが、彼の言葉には何か不自然なものを感じていた。彼は私が疑問を抱いていたことを知って知らずか、葉書ほどのサイズのカードに描かれた絵がずらりと並べられている地面に目を移し、私を促した。
「みんな私の可愛い子供達です」
彼の言葉に誘われて私も絵を眺めた。電柱や山や雨に濡れた街。そんないろいろな風景達が誰かの手に取られるのをじっと静かに待っていた。どれも素晴らしくリアリティのある風景で、まるで私自身がこんな電柱や山を見たことがあるような、そんな錯覚を覚えた。
「風景画ですか」
「ええ」
「似顔絵なんかは?」
「僕には、生あるものは描けないんです。残念ながら。山は描けるけれども木は描けない。街は描けるけれども人一人を描くことはできない。飛行機は描けるけれどもパイロットは描けない。そういう人間なんです。僕は」
そう言うと彼は一枚の真っ白なカードを取り出し、細いペンを使って何やら描き始めた。ペンがキャンパスを走るさらさらという音が、後ろに聞こえる人々の足音をかき消してしまうかのようにいやに大きく聞こえる。絵を描くときの彼の姿は情熱的で、最初に感じたようなひっそりとした佇まいは微塵も感じられない。
彼が描いたのは一匹の蝶だった。蝶は私に差し出されたカードの上でしばらくはただの絵であったのだが、ほどなくピクピクと触覚を動かし始め、そして黒い羽根をゆっくりと動かし始めた。しかし蝶はただ空気を掻いているだけで、どれだけ待っても空へと飛び立つことはなかった。
「飛べない蝶です」
彼はぽつりと呟いて蝶の羽ばたくカードを見つめた。
「僕には何かが足りない。だからこいつは飛べないんです。その何かが何なのか、僕自身が理解できるまで、蝶は一生この紙の上で羽ばたき続けるしかない。蝶だけじゃありません。匂いの嗅げない犬、巣を作ることのできない蜘蛛、花の咲かない桜…」
命を吹き込む絵描きの目には涙が浮かんでいた。私にはどうしようもない問題であって、依然として羽ばたき続ける蝶の描かれたカードを彼が真っ二つに引き裂くのを黙って見ているしかなかった。黒いペンで描かれた黒い蝶は羽ばたくのを止め、ただのインクの染みとなって地面にぽとりと落ちた。あとには何も描かれていない真っ白なカードだけが、小さな紙片となって残った。

街は既に夜となり、空は闇に浸食されていた。いつの間にか陸橋から聞こえてくるロックの演奏は止み、代わりにその下の信号の近くでジャズの演奏が始まっていた。‘ST.THOMAS’が軽快に街を彩ると、それまで人の流れの大半であったはずのスーツ姿のサラリーマンは姿を消し、髪を染めた若い男女で街は混み合っていた。絵描きがその場に蹲り、密かに涙を流している。彼の右肩に置かれていた傍に立つ女の手は、行き場を失った子犬のようにそのままぶらりと垂れ下がっていた。その様子を見ていると、もうこの街には美しい女性の泣きボクロのような場所は無いのだと感じた。或いは最初からそんな場所は存在しなかったのかもしれないとさえ思え、いつ見つけられるか知れない‘何か’を探し求める絵描きの、おそらくは「さようなら」と発した小さく震えた声は遠くのジャズの演奏と街のざわめいた空気に吸い込まれてしまい、私の耳に届いてきたときにはただの嗚咽にすり替わっている。
「さようなら。娘さんをお大事に」
確か娘だと言ったか。いや、彼は確かその女のことを自分の妻であると紹介したのであって、娘などという言葉は一度も口にはしていない。それでもなぜか私は間違っていないと感じた。彼の描く全ての絵が彼の子供であるならば、彼女は彼の娘なのだ。ペンで命を吹き込まれた女、心を持たない娘。彼は彼女を描いた紙をはたして今の蝶のように破り捨ててしまうだろうかと考えた。そうするかもしれないしそうしないかもしれない。いずれにしても私にはどうすることもできない問題であって、彼は一生彼女を描いてしまった罪を背負って生きていかなければならないのだ。
私は少し歩き、静かな路地にある自動販売機でコーヒーを買って飲んだ。そして、あの女…とまた思い返し、その表情の分からない顔を頭の中に甦らせた。彼女の泣きボクロがどうにも気にかかってしまい、出来ることならばあの絵描きが、彼女をこの世から消し去ってしまわないように。そう密かに祈った。





#35 開閉

家に帰る途中キムタクに会った。
キムタクは私の顔を見るといきなり自分の頭を両側から掴んでパカッと開けた。
メロンパンが入ってた。
それからキムタクは頭を元に戻して
「開いてるときも含めて俺だから…」と言った。
でも開いてるときのキムタクはあんまり格好良くなかった。





#34 各駅停車、14歳

私が揺られているのは確かに各駅停車であって、各駅停車といえばその名の通り全ての駅に停まるというのが常識というものだが、それならば今しがた窓の外に映った小さな駅のある風景は一体何なのであろうかと思い目を閉じた。

駅は木造の屋根と一つの小さなベンチで構成され、申し訳程度に設置された改札の向こうは長い並木道になっている。とても良く晴れた今日のような日には、生い茂った木々の葉の隙間から日光がまるで何本もの細いスポットライトのように、光の粉を中空に撒きながら土の地面をやわらかに照らし出している。駅名の書かれた看板は既に何年もそこにただ置かれているようで、錆付いてしまっていて読むことはできない。

それから確か…と私は一息ついた後でさらに記憶を辿り、流れ去った風景の復元を再開した。電車はそんなまったくどうでもいいような作業をひっそりと手助けするようにカタンカタンと心地よい振動を一定のリズムで刻み続けていた。

屋根の下には少女が立っている。長い髪の少女で、電車が通り過ぎるときの強い風は、他人の目に彼女を少し大人に映らせるのには十分なほどで、目を細めながら髪を押さえる彼女は18、9にも見えるのだが、実際には14歳であって、13歳でも15歳でもない。彼女が大事そうに抱えているトルストイだかドストエフスキーだかの分厚い本は13歳には重すぎるし、15歳には古くさすぎる。
‘怒るなかれ 姦淫するなかれ 誓うなかれ 悪に抗するなかれ 戦うなかれ’
なんと重く古くさい戒律ではないか。

と、そこまで考えてから瞼を開けると案の定、私の向かいの座席に14歳の少女は座って心地よい寝息をたてながら夢の中、空中散歩をしている。こんなにも少女が少女らしい14歳の寝顔でいられるのはきっとこの電車が各駅停車だからなのであろうと思い、私は電車を降りる準備を始めながら、この快晴と各駅停車の優しい振動に密かに感謝する。





#33 路傍に花が咲く理由

河原で散歩してたら大きな籠を背負ったおじさんがいた。おじさんは大きな洗濯ばさみみたいな道具でそこら辺のゴミをはさんでは籠に入れていた。
「こんにちは」
私が声をかけるとおじさんはにっこり笑って「こんにちは」と言った。
「お掃除ですか」
「いえいえ」
おじさんは首を振ってまた一つ潰れた空き缶を籠に放り込んだ。
「でもおじさん、その籠は」
「籠に入った物は全てそこにあると思うのはお嬢さん、間違いというものでね」
おじさんはふふっと笑って私の方に籠を傾けた。籠の底には大きな穴が開いていて、さっき入れたはずの空き缶も拾っていたはずのゴミも中には無かった。
私が戸惑っているとおじさんはまたふふっと笑って空き缶を籠に放り込んだ。空き缶はどこかへ消えて、下の穴からたんぽぽが一輪落ちてきて地面に咲いた。
「別にね、お嬢さん」
「はい」
「地球のためにとか、そんなんじゃないんですよ」
「はい」
「ただ楽しいからね、やってるんです」
そう言うとおじさんはお辞儀をして、またゴミを探して歩き出した。河原には小さな小さなたんぽぽの道がずっと向こうまで続いていた。





#32

先日仕事で一緒になった某新婚DJさんがその日、奥さんに叩き起こされて言われた第一声が「ねぇ、マイル貯めてファーストクラス乗ろう」
結婚するとしたらそんな奥さんが欲しい。でも一生付き合えるかどうかは微妙。





#31 それから僕は起きあがって、幸せな天使のことを思いながら煙草を吸った

首輪の付いていない汚れた犬が一匹道ばたに佇んでいて、キョロキョロと首を動かしている。そして大きな欠伸をする。まるで全ての人々が足音をたてることを拒否してしまったか、あるいはこちらの耳に届くより前に、飽和しそうな空気の水分が音を全て吸い取ってしまったかのようにひっそりと沈んでいて、今にも雨が降り出しそうな、そんな街を僕は少し湿り気の混じった風を受けながらいそいそと大学から家に向かって歩いていた。
そこに女の子がいて、場所は本屋の前だったか靴屋の前だったか自動販売機の前だったか思い出せないけれど、とにかく何かの前に女の子が立っていた。僕と同じくらいの二十歳くらいの娘で白いワンピースに白い靴を履いて、透き通るような白い肌をして髪は金色に近い色。雨が降り出しそうな灰色の薄暗い金曜日の街には少し眩しいくらいだった。僕は別にナンパが好きなわけでもないし、大学からの帰り道を歩いていただけなのだけれど、その女の子には何か普通の娘とは違うものを感じて声をかけることにした。何かというのは明るさとか寂しさとか危うさとか、そして単純にかわいさとか、そんな色んな何かだ。
「一人?」
「一人」
彼女は僕が声をかける前から僕と目が合っていて、なんだか吸い込まれてしまいそうな透き通った目でじっと僕を見つめていた。僕はそういうのが苦手で、彼女から目を逸らしながらナンパを続けた。
「よかったら酒でも飲まない?」
「あなたの家で?」
「別にどこでも」
「じゃあなたの家で」
「かまわないよ」
「お酒飲んで、それからどうするの?」
「君と俺の話をして、それから色んな体位を試してみる」
僕が冗談でそう言うと彼女は微笑んで、「悪くないね」と言った。それから僕らはごく自然に、並んで僕の家へ向かった。

家に入るなり彼女は背伸びをして「ん〜っ」と気持ちよさそうな声を出す。それから彼女は勝手に僕のソファーを占領し、クッションを抱え込んでからまた背伸びをした。
「あーよかった」
「何が?」
「雨が降る前に来られて」
「雨?」
「雨に降られるなんてぞっとするじゃない」
「そう?」
「そうよ」
「雨がそんなに嫌い?」
「知らないの?」
「何を?」
「雨は天使が死んだ知らせなの」

彼女を家に入れたのは間違いで、僕はさっさと彼女を振り切って帰ってしまうべきだったのだ。でもとにかく僕は頭のイカれた女を家に入れてしまい、そしてなぜか今こうしてグラスにビールを注いでいる。不思議と彼女を追い払おうという気は起こらず、少しだけなら彼女の頭のおかしさにも付き合ってやっていいかという気になっていた。それに夜は色んな体位を試さなければいけない。僕はグラスを2つ持って彼女が座っているソファーの縁に腰掛け、彼女にビールを手渡してからジョン・レノンが歌うSTAND BY MEをかけた。もうすでに雨はぽつぽつと降り出していて、街の灰色は一層その色を濃くしていた。
「素敵な曲ね」
「知らないの?」と、僕は彼女の口調を真似して言った。
「知らない」
「雨の日にかけるんだ」
「ふうん」
「それも憂鬱な雨の日にね。ほら、なんだか雨が降ってるのを忘れられそうじゃない?」
彼女は静かにその透き通った目を閉じてじっと流れてくる音に身を任せ、そうして静かにリズムに合わせて体を揺らしながら頷いた。
「映画の主題歌。主題歌になったのは違う人が歌ってるんだけど」
「そうなんだ?」
「子供達が死体探しに出かける映画でね」
僕がそう言うと彼女は気味悪そうに顔をしかめた。
「死体とか雨が出てくる映画なんてろくなもんじゃないわ」

僕らは夜が来るまで色んな話をした。彼女は天使の話以外驚くほど何にも知らなくて世間知らずで、生まれたての赤ん坊を連想させる。僕はそんな何も知らない19か20の女の子にケリーバッグの存在やジョン・レノンや浜崎あゆみやカルボナーラのパスタのことを教えてきかせた。彼女はじっと興味深そうにそんな話を聞いていて、僕が話し疲れてしまうと天使の話を始めた。天使がどんなところに住んでいてどんな生活をしているかとか、僕にはまるで関係が無くて興味も沸かない話ばかりで、疲れるのはやっぱり僕の方で、そのうちに夜が来て僕らは一つのベッドに入った。でも何もする気は起きなかった。彼女は色んな体位を試すにはあまりに無知で、確かにかわいくはあったけれど、服を脱がせるにはあまりにそういう意味での魅力が無さ過ぎた。

「ねえ」
真っ暗になった部屋で、彼女が口を開いた。
「何?」
「ありがとう。色んな話きかせてくれて」
「いいよ」
「一つだけ訊いていい?」
「何?」
「この世界、幸せ?」
「さあね。今だって誰かが死んでる。飢えに苦しむ人がいる」
「あなたは幸せ?」
「どっちかというと幸せかな。何の不自由も無く大学に行けて、アルバイトすりゃ服も買える。大学には友達がいて実家に帰れば親もいる。そういうのって多分幸せなんだよ」
「ふうん」
「色んな体位を試せないのは残念だけど」
「ごめんね」
「いいよ。あれも適当だったんだろ?」
「あれ?」
「最初会ったときに『悪くないね』って」
「あー」
「別に気にしなくていいよ」
雨は相変わらずぽつぽつと降っていて、地面に落ちる音が無音の部屋の中に流れ込んでくる。彼女はぶるっと震えて毛布の中に両手を入れた。
「雨まだ降ってるな」
「明日には止むわ」
「まあそうかもね」
「知ってる?天使の寿命は短いの」
「へえ」
「天使の寿命はきっかり20年でね、その前の日になると羽根が折れて地上に降りてくるの」
「どうして?」
「そう決まってるからよ。それでね、最後の一日を地上で暮らすの。地上には普段天使が暮らしてる天上よりももっとずっと色んなものがあってね」
「例えばケリーバッグとか?」
「そう。ケリーバッグとか憎しみとか怒り、喜び。そんな色んなものをちょっとずつ吸い取ってね、それから天使は体を失って天上へ戻って雨になるの」
「天使が死んだ知らせ、か」
「それでね、その地上で暮らした一日、その天使がこの世界を幸せだと感じたら幸せな雨が降るの。幸せな雨って知ってる?」
僕はできるだけ幸せな雨を思い浮かべようとした。でも浮かんでくるのは風情のある雨や綺麗な雨ばかりで、幸せと呼べるようなものではなかった。
「さあ。知らないかもしれないな」
僕がそう答えると彼女はごそごそとベッドから抜け出て暗闇の中、またソファに身を投げ出してふうっと息をついた。
「このソファー、気に入っちゃった」
「だろ?」
それから後は何も聞こえなくなった。僕は目を閉じて、いつもとは少し違う眠りの中に落ちていった。

翌日午前9時。空は青。彼女の言ったとおり朝はすっきりと晴れていて雲一つ無く、土曜日としては完璧な空模様で、僕は彼女が部屋から消えていることを確かめるともう一度毛布をかぶり、11時にベッドから起き出した。切らしてしまった煙草の空のケースを握りつぶして新しいものを買いに外へ出て欠伸をすると、昨日街で見たあの汚れた犬を思い出した。あいつはまだああやって道ばたに佇んで欠伸をして、そして何かを探しているかのように首をキョロキョロと回しているのだろうか。多分もう犬はいないだろうと思った。汚れた犬は憂鬱な雨の降り出しそうな灰色の街にこそ似合うものなのだ。
煙草を買い、一口吸ってゆらゆらと昇っては空へと吸い込まれてゆく煙を眺め、これもまた幸せだと思う。野球のユニフォームを着て自転車に乗った少年が何人か目の前を通り過ぎる。小さな路地で、車はたまにしか通らない。僕は道の真ん中に大の字になって寝ころび、空を見上げながらまた一口煙草を吸った。煙草の煙がまたゆらゆらと空へ昇り、空気に溶け込んでゆく。その隙間から、僕の顔にぽつりと一粒の雨が降った。幸せな時に幸せな雨を顔に受けるというのも、まあこれはこれで幸せだと思った。










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